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黄金時代

私が生まれ育ったのは横浜の下町で、子供の頃は、まだ近所に空き地や野原がいっぱいあった。小学校の頃は家に帰るなりランドセルをおっぽりだして、近所の悪ガキたちと、そうした空き地や原っぱで遊びまわるのが日課といってよかった。我が家の裏は小さな庭になっていたので、そこでもよく缶ケリやめんこをしたものだ。周辺の道路が舗装されたのは私が小学校へ入った頃で、それまでは雨が降ると一面ぬかるみになっていた記憶がある。舗装はされてもまだ自動車などそう走っていない頃だったから、家の前の道路でも蝋石で仕切りを書いて石蹴りやケンケン遊びなどをよくしていた。

“何でも遊び”と言うのがあって、確か十種類くらいの遊びの中から、ジャンケンで勝ったやつがその中から一つ選び、その遊びの勝者が次の遊びを選ぶルールになっていた。他は忘れてしまったのだが、一つだけ今でも憶えているのは“リンゴの皮むき”というやつで、一人はただそこで気を付けの姿勢で立っている。もう一人が立ってる奴の頭のてっぺんから、リンゴの皮を剥くときのようにグルグルと指先でなぞっていき、くすぐったくて笑ったら負けという、まあ何ともバカバカしい遊びである。いったい何がそんなに面白かったのかわからないが、これは人気があってよくやった。

日本でテレビ放送が始まったのは1953年のことだが、とうてい庶民の手がとどくようなものではなく、私が初めてテレビを見たのは、近所の商店街のなかほどにあった空き地に据え付けられた公共テレビで、力道山のプロレスだった。向かいの歯医者の家には早くからテレビがあり、そこの息子が私の遊び仲間だったので、よく“チビッコギャング”や”鞍馬天狗“を見せてもらった。


ちなみに、私の家にテレビが入ったのは1962年のことで、スイッチを入れたとたんケネディ暗殺のニュースが飛び込んできた。


紙芝居もよく来た。ピンク色の丸いウエハースのような菓子(センベイとよんでいたが、もちろんいわゆる煎餅ではない)二枚のあいだに棒でグニグニと練って白くなった水飴をはさんで、それを齧りながら見たものだ。出し物の記憶は全く無いが、その菓子の味は今でもハッキリと憶えている。駄菓子屋では、食べた後口の内外が着色料のせいで真っ赤になるイカの足や、小さい試験管のようなガラスチューブに入っていて、一方からチューと吸い出す、毒々しい赤と緑色の寒天らしきものをよく食べた。よく腹をこわさなかったものである。

週末は總持寺や三池公園まで足をのばして、思う存分駆け回っていた。特に總持寺は曹洞宗の関東の総本山なので広大な敷地を保有しており、周辺は草むらや林に囲まれていて、私達子供にとってはまたとない遊び場だった。草むらでは虫取り、林では追いかけっこやかくれんぼ、うらの崖を登ったり滑り降りたりと、いつも帰る頃には服は泥まみれ、手足は擦り傷だらけだったのだが、だからといって親に叱られたような記憶は一つも無い。赤チンを塗ってお終いだった。


赤チンといえば、小学校二年の時だと思うが、自転車から転げ落ちて顔面をザーッと擦りむき、顔半分一面に赤チンを塗りたくられて、次の日真っ赤な顔で登校して教師にたまげられたことがある。


参道を登ったところにあるくぼ地には古びた太鼓橋が架かった池があり、そこでよくザリガニやおたまじゃくしをとったものである。かなりの数の坊さん達がいたはずなのだが、ほとんど彼らを目にした記憶が無く、本堂などにも勝手に忍び込んだりしていた。ただ、子供心にも本堂内の厳かな雰囲気は伝わり、そこでいたずらをするようなことはなかった。

うちのすぐそばに風呂屋があり、内風呂などまだなかった当時の私達には其処もいい遊び場の一つだった。午後三時に開くので、まだ空いている早い時間のうちに三~四人連れ立って出かけては、自家製のボートなどのおもちゃを持ち込んではしゃぎまわったものだ。プールさながらに、お湯に潜ったりお湯をかけあったりしていたはずなのだが、これも誰かに注意されたり叱られたりした記憶が全く無い。向かいの美容院の隠居じいさんは、当時で80歳を超えていたと思うが、一年中毎日開くと同時に一番乗りで、行きも帰りもふんどし一丁に手ぬぐいと石鹸をいれた金盥という出で立ちだった。五月五日の子供の日には菖蒲湯、冬至の日にはゆず湯。風呂屋の裏の空き地には釜焚き用の木材が乱雑に積み上げられており、そこでも隠れ家を作ったり、棒切れを刀に見立ててのチャンバラゴッコをしたりと、まるでやりたい放題だったのだが、誰にも怒られたことが無い。


私の一番古い視覚的記憶は、母が銭湯の湯船のなかで石鹸入れの蓋を片手に、浮かんでいるウンコを追い回している様子である。そのウンコの出所が幼かった私であることは100%間違いない。


当時は今のようにいろいろな施設がなかったせいか、いわゆる精薄児(という言い方は今では差別用語になるのかしら?)も多くいた。我が家の隣の隣は五人兄弟・姉妹のうち四人が精薄という有様で、一番下の男の子が確か私より三~四歳上だったと思う。四人ともどこの学校にも行っていなかったはずで、真ん中の男の子(わたしよりかなり年上のはずだが)は一年中家の前に座って、通る人に笑いかけていた。もう一人、近所の駄菓子問屋の娘で、私より一つ二つ年上のYちゃんというのがいた。後で知ったことだが、彼女は小児ポリオで脳をやられており、いつもは店の奥の柱に紐で繋がれていて、手足をバタつかせては訳のわからない嬌声を上げていた。私達子供にとっては恐怖の対象で、たまに紐が外れて表に飛び出したりした時は大騒ぎである。今思えば残酷な話だが、触られた子は“エンガチョ”といって、なにか疫病でも移されたようなからかい方をされるのである。私も一度Yちゃんに抱きつかれて大泣きをしたことがある。これも、だからといって親や他の大人に注意されたようなことは一度も無い。

不思議なもので、当時いっしょに遊んだガキ連中の顔と名前や、どこでどう遊びまわっていたかは今でもよく憶えているが、クラスの他の連中のことや、学校でどういう授業を受けていたかについては全く思い出せない。

今、私の実家の周辺には空き地というようなものは全く残っていない。どんな小さなスペースにも家屋が建っているか、駐車場になっている。家の裏の庭には、私が中学生の時に親が小さなアパートを建て、その後、弟が二世帯住宅として建て替えて今日に到っている。総持寺は、確か私が高校生の頃ではなかったかと思うが、新本堂建立のときに参道をすべて舗装し、池をつぶして大駐車場にしてしまった。私たちが遊びまわった周辺の原っぱや林も宅地化され、当時の面影は全く残っていない。風呂屋は随分頑張っていたが、二年前(2009年)に廃業し、今は大きなマンションとなっている。精薄児達は、私が高校を出る頃にはすべて施設に送られたようで、その後のことは耳にしていない。

子供の時のことを思い出す時、いつも付いてまわるのは季節の匂いである。特に初夏と秋。

後年、岡井隆の、

“しげりゆく 卯月さつきのさわさわと 青かきわけて生きてあえぎて”

という歌に巡り会った時、真っ先に思い出したのは総持寺の原っぱのムンムンとする草の匂いだった。秋には、木立の中に入れば落ち葉が腐る腐葉土の独特の匂いがたちこめていた。菖蒲湯とゆず湯の匂いも忘れられない。思えばあの子供時代を頂点に、それ以降の私の人生は降下の一途だったような気もする。

私は30年以上にわたって版画制作をしてきたので、薬品のせいで大分臭覚が落ちてしまっているが、たとえそうでなくても、今の日本の都市部に季節独特の匂いが残っている場所はほとんど無いのではないか?子供達が勝手気ままに遊びまわれる身近な自然は完全にといっていいほど失われ、管理された時間の中でビデオゲームに夢中になっている。私はそれに対して善悪の判断をもたないが、彼らが私の歳になったとき、果たして同じような子供の時の黄金時代の思い出を持つことが出来るのかどうか、なんだかかわいそうな気になるのは確かである。


生家の前で (1950年代中期)

2011年9月の晴れた日